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平成6年1月29日

 僕の娘は、制服のない、公立の高校に通っている。年頃で、制服がないと来れば、毎朝、今日は何を着ていくか楽しんじゃうってことになりますが、日本の場合、こっちが楽しんでるってことは、あっち、すなわち先生たちが楽しんでいないということを意味しているようで、いろいろ言われるんですって。自分できちんと考えた服装をしましょう、というのが、彼女の学校の服装に関する考えで、「考えて着て来て、似合っているんだから、いいじゃない、ねぇ。」と言うのが、いつも先生に注意されている友達に対する彼女の弁護の言葉なのですが、おいおい、それじゃぁ、似合わないのを着てきたら、いけないことになるんじゃないの? 本当はね、問題はそこにあるのではない。自分がそれで良いと考え、納得したのなら、服なんて、何着たって良いのよ。似合うからいい、だらしなくみえるからいけない、という問題ではなく、人が、自分で考えて、自分で行動する楽しさとすごさを、保証されているかどうか、ということが、どうも良くわからない理由で規制されていると、僕達はなんだか面白くないと感じるのだと思う。これって、結構人間の基本的な人権にかかわってくる問題だと、僕は、思うな。
 僕が高校生だったころ、日本中の高校生が、誰かに決められてしまっている制服や規則なんかを、もう一度点検しなおそうぜ、という運動をおこして、いくつかの高校では制服を止めてしまった。その結果が、その当時の僕達の思いをはるかに越えて、今ここにある。冷静にみれば、結構いい線いってるんだと、僕は思う。今時の子どもたちは、と、繰り返すのではなく、このレベルでの文化と意識の伝達をこそ、大人はする時期に来ていると、お父さんとしての僕は思う。

平成6年2月26日

 宮城県美術館では、子どもたちと一緒に「美術館探検」というのをよくやる。内容は、消防署のように美術館を見学してみるというものだというのは、前に書いたよね。この活動には、みんなで、廊下の壁にある大小さまざまな扉を開けて、中をのぞいてみるという作業がある。美術館のような公共の建物って、気をつけてみると、壁になにか怪しげな扉が、あっちこっちにたくさんあるでしょう?その中の幾つかを開けてみると、中は本当にいろいろで、へぇ、美術館って、こんなにたくさんの仕事の積み重ねで動いているんだ、ってことがわかってくるのね。 そういう、本当は開けてはいけなそうな扉を開けてみるときの、僕と子どもたちの会話。
 「いいか、こういう扉を開けるときには、まず、なにげなく、右を見て左を見て、誰も大人がいないというのを確認してから、そっと開けるんだぜ。」「齋さんも大人でしょ?」「あっ、お前するどいな。でもね、仲間の大人っていうのがいるんだよ。そのへんちゃんと判断しないとな。」
 それから、そっと中をのぞいて、小さく暗い部屋の中に丸いメーターを光らせて並んでいるパイプを見て、声もなく驚いてみたり、天井に上がっていく鉄の梯子の先はどこに続いているのか考えてみたり、ずらっと並んだ電気のスイッチを見て、あぁ、美術館も夜は電気を消すんだなってことを発見したりするわけね。
 大人になるためにはさ、幼稚園のころ、小学4年生の人に教えられたことなんてのも、すごく大切な情報なんだと思うんだよね。そういうのって、僕のころは「ちゃんとしたがき大将」ってのに教えられた。今は、誰がそういう文化を伝えてるのか、昔、子どもだった僕は、最近、ちょっと心配なんだけれどなぁ。

平成6年3月26日

 事情があって、ここのところ毎日自動車で通勤している。本当ならこの時期、僕は自転車かモーターサイクルで通いたいのだ。この季節の空気のなかを、自転車やモーターサイクルを駆って走り抜けるときの、あの高揚する気持ちを知っている人は、多分、みんなそうしたいと思っているにちがいない。そうすれば、通勤があっというまに、趣味の時間に変わるわけですからね。でも、大人になると「事情」というものがあるからね、しょうがないんだなぁ、これが。様々な「事情」のために、そう簡単には出来ないことがあるのよと、つい言いながら、毎日は過ぎていってしまうのだ。 しかしさ、そうやってシコシコやっている毎日のなかから、ふと頭をもたげて遠くを見ると、ううむ、最近やたら「事情」が多くなってきているようじゃないですか。事情だらけで、そっちが優先されちゃってることが多くなっている。気持ちの良いこと、あんまりやってないなぁ、と言うことに気付くわけですよ。これはいったいどうしたことだろう。むむむ、理由はわかっているんだ、本当はね。
 なんとかやっつけなければいけない「事情」が、「しょうがないもの」になってくると、たいてい体重が3キログラムくらい増えてくる。心の調子は身体にすぐ現れる。去年の春、鎖骨を折ってから、僕は、準備体操だけで、十分に汗をかくような内容の運動をしていない。肩に入っていた金属プレートは、お正月のすぐあとに取ってもらったし、モーターサイクルのオイルも、この間交換した。さて、あとは、始めるだけ。
 毎日起こる「しょうがない事情」を、積極的に肯定しないと、それを自分のコントロールのもとに置くのは難しい。セルフ・コントロールが難しいのは、多分ここのところなのだろうな。

平成6年4月23日

 ずうっと前に、子どもたちとバスに乗っていて、彼らが「おしっこしたくなった。」という場合、どのように対処するかというお話を、どこかに書いたことがあります。僕んちは降りちゃうんですね、そこがたとえ田んぼの真中の停留所だったとしても。 子どもたちと一緒に活動をすると、こういうふうに突然予定がまったく違う線路にきり変わるポイントが、思いもかけないところにけっこう沢山あるので、楽しいんですよね。小説なんかではこういうところから冒険が始まるわけですが、もちろん、現実にはそうではないことがすごく多くて、次のバスなんかないわけね、すぐには。ま、あわてないで、その状況を楽しんでしまいましょう。目的を効率良く達成するより、そこにいたる経過を充実させようぜ、ということをその時は書いたのでした。
 で、そういうふうにして僕の子どもたちは大きくなってきました。彼らにとって物事はそういうふうに進むものなのです。そして今、彼らは高校生と中学生になりました。
 最近、そういう彼らと話をしていて、僕の考え方はもともとそういう、のんびりしたもんではなかったんだということがわかってきました。僕は、そういう状況をストレスとして受け取らないように、けっこう意識的に、そうしていたんですね、自分でも面白がってはいたけれど。それは、僕の両親のことを考えればよくわかります。彼らは、大変一生懸命僕を育ててくれたけど、あんまりのんびりっていう思い出はないもんなぁ。
 意識的にやっていた人から、最初からそうできる人ができてきて、なるほど、ここでのものの見方のくいちがいが、ジェネレーションギャップというものなのだな。ううむ、なかなか鋭く、文化というものは、伝達されて行くのであるなぁ。

平成6年5月28日

 僕は、どちらかと言えば、カーキ色とかダークグリーンとかの色合いの、オーソドックスなスタイルの服が好きだと言うと、最近の僕の着ている物を知っている人たちからは、嘘をつくんじゃないと言われそうだな。 僕のおかみさんが、僕に初めて買ってくれた服は、出始めたばかりの頃のポロのトレーナーで、それは、縫い合わせてあるすべての部分の布の色が違うという、当時の僕にとってびっくりぎょうてんすべきしろものでした。でも、もちろん着ましたよ、なにしろ、彼女が一生懸命探してきて、そんなにもらっていないサラリーをさいて、これを着てもらいたいと買ってきたのですからね、それを着ないと言う訳にはいきません。で、結構似合ったの、これが。あ、俺って、こういうのも着られるんだ。
 当たり前のことですが、僕の子どもたちはこれまでずっと、僕とおかみさんが良かれと思って買ってあげる服を中心とした「人生」を送ってきました。で、ある日、見たことのない「変な」服が、僕の目に止まるのですね。わぁお、なんなんだよこの服は!
 彼らは、自分で服を買ってきたのです。自分で決めて買ってきたのです。すごく新しい気持ちなんだろうなぁ、そういうときって。新しい服を思い切って着るという、やってみればなんとも簡単なことで、自分の守備範囲がドンと広がる。自分の身に付ける様々なもの、そして、その基本にある自分の体そのものに常に注意をはらい、できる範囲で最大の振動を与えておくこと。そうだよな、こういうことが、実は、自立するということの、まず第一歩だったんだよな。
 自分の最近を振り返りつつ、お父さんはしみじみその「ヘンな」服を眺めるのでした。ううむ、ジョギング始めようかな。

平成6年6月25日

 急いでないとき、エレベーターに一人で乗ると、たいていは僕は扉が自動で閉まるのを待っています。誰かが乗ってくればそれはそれで事件の始まりになるかも知れないし、誰も来なければ来ないなりに、不思議にぼんやりとした、しかし緊張した時間がすぎるのを楽しめます。そうして、せいぜい何十秒かの時間が流れて扉が閉まります。 四月から新しい住まいに引っ越しました。今度の所は高層のアパートで、なんと10階の南端。さすがにエレベーターがついています。
 ある日、そのエレベーターに乗ったら、後から小学生が二人走り込んできました。元気よく、かつなかなか礼儀正しい人たちで、僕たちは挨拶を交わしました。彼らは7階で降りたのですが、彼らが降りても、僕が扉を閉めずにただニコニコ立っているだけだったので、「おじさん、扉閉めのボタン押さないと動かないよ。」と、心配して言ってくれたのでした。ううむ、こういうとき、大人としての僕は何と言ったら良いのかなぁ。
 本当はね、閉めのボタンを一回押す毎に、確か八円程だったか余計な電気がいるんだって。だから、原子力発電はいやだと考えている人は、扉閉めのボタンを押さないことにしようという人たちもいるのね。
 僕も、扉閉めのボタンは押さない。でも、理由はちょっと違う。違う時間の流れがすぐそばにあって、そういう時間に気付くと、なんかわくわくする生活がすぐ始められるんだってことを忘れないようにするために今の時間を使う。これって、僕は子供のときに学んだと思うんだがなぁ。
 こういうジャンルの文化って、どういういふうにして伝えていけばいいのか、真剣に考えなければいけなくなってきちゃったのって、いったい誰のせいなんだ?

平成6年8月27日

 ごく控えめに見たとしても、夏休みの美術館はやっぱり、少しうるさい。新しく美術館を作るとなると、「開かれた」とか「活気あふれた」とか、ま、何か元気のよさそうなうたい文句で始めることが多いのですが、これって、具体的には、「騒々しくて、うるさい」ってことと、同じになってしまうわけですね。僕たちの国では。そうして、それは家庭でのしつけがなっていないからだと、美術館なんかに来たときには、静かに鑑賞するように、ちゃんと、おとうさんやおかあさんが教育しなければいけないんだと、言われちゃったりするわけですね。
美術館って静かにしていなくちゃいけないところなの? 子どもたちと美術館の探検をするというのも、僕が、美術館でしている仕事の大切な部分で、これまで、さまざまな年齢の小さい人たちと、それこそすみからすみまで巡り歩いていきました。探検に出かけてすぐ、展示室(要するに、ここんとこで騒ぐと、目立つのね)に入るまでに、僕は、子どもたちと、周りを注意深く観察することを練習します。僕たちは、一体今どこにいて、そこはどのような状況になっているかについて、気にしてみる。するとね、ほら、ここから、なんだか暗くなってるじゃない、とか、あれ、ちょっと涼しくなった感じだぞとか、あるわけよ。そういう事に気がつけば、それに反応できるわけで、で、どういうふうに、反応してゆこうかっていうあたりから、周りの人との相談になるのじゃないのかなぁ。
 「静かにしなさい。」と突然言う前に、「周りをよく見て、適切な反応をしなければいけない状況が出てきたよ。」という情報をまず与えることこそが、次のジェネレーションに対する大人の責任のように僕には思えるのだが、どうだろうか。

平成6年9月24日

 田圃の中を適当に曲がりながら、むこうに見える丘の麓まで延びている、舗装と未舗装が混ざりあった農道、という、自転車(僕の場合マウンテンバイクのことね)で走ったら絶対気持ち良いぞ!の道が、今度の住まいの周辺にはごく普通にあるということが、家の周りの探検の結果、発見されたのよ、うっふっふ。 向山に住んでいた頃「長町地区トンネルめぐり」というのをやった。あっ、あの「えっ、長町にトンネルなんてあったっけ。」とか言わないでね。要するにみんなで自転車に乗って、愛宕大橋下発、広瀬川堤防を下って宮沢橋から286号線に上がり、大年寺山門下の地下横断歩道で国道を横切り、長町駅に向かい、長町貨車区の下をくぐって駅の東側に出る長いガードを通って諏訪神社にお参りし、名取川の河原に出る。そこでお弁当を食べてから、仙台南部道路の下を横切る何カ所かのトンネルをくぐりながら戻ってくると、まぁ、そういうふうなトンネルめぐりなんですってば。何かの下をくぐればトンネルだい!みたいなね。
 自転車って、あまりにふだんの生活に溶け込みすぎていて、ま、その辺にある奴で良いんじゃないの、という扱いを受けているように思えるのだけど、こんな具合に出かけるときは、ぜひ「ちゃんとした」自転車っていうのを使いたい。自分の体に合わせて手入れされた自転車ってさ、たいていの人が思っているよりはるかに軽快で、快適だということは、「ちゃんとした」自転車に、「自転車をこぐ目的のためだけ」に乗ってみると、すぐわかる。でも、それがなかなかできないんだよね。
 気持ち良いということはどういう状態のことを言うのか、僕達の身の廻りを、もう一度点検しなおしてみたいと、秋だから、思う。

平成6年10月29日

 今日は僕の休日で、午前中から、今回は教育のことを書くぞと、はりきって始めたのだけれど、どうも違う。頭の中だけが廻っていて、へんにいじけた感じの文になってくる。ううむ、本当のことを言えば、私は今から、街の南に広がる丘陵地帯へ、ちょっとした散歩に出かけたいのよ、教育のことなんか後にして。 今年の夏から秋にかけて、忙しかったような気はするけれど、ちゃんと夏休みもとることができたし、行きたいと思っていた所にでかけたりもした、けれど、いかんせん、何故か、僕の休みの日になると雨が降る。9月末の、あのものすごい雨の時期も、僕のお休みの間だったりしたわけね。そして、今日も、天気はあまりよくない。雨の休日、僕はいったい、何をしていたいのだろうか。
 もちろん歳をとったせいだと思うのだけれど、最近、僕はぐうたらなのである。天気がよくないと、自動車で子どもたちと街に買い物なんかに行ってしまったり、手近な室内プールで半日、水泳していたりするのである。こってしまうと、どこかの温泉の小さな部屋で、文庫本を読みつつ、1日お湯につかって過ごすなんて事をやってしまったりする。ううむ、これはこれで、ちょっとした大人の休日の過ごし方ではあるけれど、なんとなく腰の廻りの脂肪が増えていきそうな感じがするじゃありませんか。
 そうだ、雨の日こそ、カッパを着て出かけたい。雨の日こそ、雑木林の中をどこまでも続く、舗装されていない山道を歩きたい。雨の中を、様々な方法で移動して行くことを、積極的に楽しむ事こそが、今のこの僕のくるくるまわる頭の整理に役立つに違いない。
 さて、出かけましょう、あの丘の遊歩道へ。雨も降っていることだし。

平成6年11月26日

 最近、少し大きい子どもたちと話をしていると、ふと、子どもたちの方が僕よりも何歩か先を行っているんだなと思うことが多い。こういう時って、なかなか気持ち良いもんじゃない?
 今時の学校には、沢山の規則がある。ま、たいていの規則には、それなりの存在理由があるのだと信じたいけれど、生活の変化に伴って、できたときは十分な理由があったにしても、今となっては、もう、どう考えても変てこりんになってしまっている規則というのも結構あるようなのだな。 たとえば、通学にマウンテンバイクを使ってはいけないとかね。これって、まだスポーツ用の自転車が一般的ではなかった頃には、子どもたちに無用な競争をさせないために有効だったかもしれないけれど、今では、納得できる理由を考える方が難しくなっていると思う。学校の帰りに買い食いをしてはいけない。でも、それなら、あんなに遅くまで「部活」をしている育ち盛りの子供たちに、何か有効な燃料補給の手段を与えてやる義務が、監督する大人にあるのではないか、と思えてくるし。
 このへんの事は、子どもたちと話ながら、整理し考えてゆくと、解決はそんなに難しくないように、僕には思える。実際、思いつきを整理してあげただけで、彼らは、時代に沿ったなかなかうまいことを考えついたのだけれど、ここでは書かないことにしよう。
 これからの時代を作って行く人たちとやってゆくとすれば、決まっている規則を守るという姿勢を教えこむよりは、むしろ自分たちの状況をみつめ、その状況の本質に必要なルールを、様々な人たちとの関係の中で決めていく練習のようなものをこそ、考えるべきなのではないか。そっちにこそ、教育があるように、僕は思えるのだが、、、。