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平成3年1月26日

 今日はちょっと寝不足なのよ。トム・クランシーという人の新しい小説、すごく厚いのが上下2冊、買っちゃって読んじゃったというのが寝不足の原因なのは、わかっている。こと、本を読むことになると、お父さん、突然、意地汚くなるからなぁ。何言われたって、むりやり読みたいだけ読んでしまうもんなぁ。セルフコントロールを言っている人じゃなくなっちゃうもんなぁ。こまったもんだなぁ。僕はいろいろな本を読むけれど、やっぱし、何と言っても、本と言ったら「お話、小説」ですね。多分、上手な「お話書きの人」というのは、まず、頭の中のスクリーンにそのお話の絵が隅々まではっきりと出てくるんだと思うな。そして、そこから書くところを選びだして、言葉に変えて行くんじゃないかしらん。そういうのって、なんだか積木で遊んでたころのお話の作り方みたいで良いなぁ。
 13歳と9歳になる僕の子どもたちと一緒に、お話をしてみると、本当は、「勉強」って、生まれてから今まで見てきた、様々な物や事の雑多な積み重ねでできている「夢」を、毎日の生活の中の具体的な場所にはめこんでゆく仕事なんだというようなことに、気がつくことができる。夢が具体的にならないと、先に進めないんだということもわかってくると、なかなかおもしろかったりする。
 で、なにはともあれ、まず一つの言葉をきちんと聞いて、そこからできるだけたくさんのイマジネーション(夢)を引きだすことができる人になるためには、なんでもいいからたくさんの本を読むことが肝心なのではないかと、僕は言い訳するわけね。当然それは、人間すべてにあてはまるわけだから、年齢の枠を越えて大切で・・・。そして、わが家では、夜ふかしの子どもが増えるのであった。

平成3年2月23日

 最近、お姉さんは、だいぶん難しいお話をするようになってきたので、お父さんは、お姉さんに時間を割くことが多い。昨日も、県庁所在地についての、人文学的な考察について、しばらく話してしまった。すると、妹が、僕の体によじ登りにやってくるのだね。座っている僕の体の、骨のでっぱりを手がかりに、フリークライミングの要領で、背中の方から、肩の上までなんとかよじ登り、そのまま、頭の上を通りこして頭から逆さまに胸の方へおりて来る。何回か失敗したあとで、そのまま、ちゃっかり、僕のあぐらの中に収まるという寸法だ。彼女は、小学生の中学年なのである。もうすでに、相当重いのである。で、僕はお姉さんと話の続きをしながら(お姉さんは、何回か、やめなさいと言ってくれたのだけれど)、彼女をだっこしてやっていたのでした。
 「子どもと遊ぶ」というのは、「子どもを遊ばせる」というのとは少し違うと思うのね。「子どもと遊ぶ」というのは、「子どもといる」と言うことだと思うのね。
 良く見ていると、ベテランのお母さん(だから、おばあちゃんであったりする)ほど、子どもといるときに、何もしないと思わない?彼らと一緒に、絵を書いたり、折紙したり、ファミコンしたりなんかしないで(できないのかも知れないけど)、でも、彼らがしていることを見ている。時々、ニコニコしながら見ていて、彼らがちらっと、そっちをみたときに、ニコッと小さく手ふったりしている。
 ううむ、これだよなと、僕は、その時思いましたよ。
 彼らと一緒にいて、彼らと一緒に見て、それを肯定する。と言うことが、彼らと遊ぶということなんじゃないのかなぁ。だから、僕は、今ちょっと忙しいので、彼女を抱いて、一緒に遊んでいるんですってば。

平成3年3月23日

 暖かくなってきたので、小さい子どもたちが、お母さんやお父さんといっしょに、美術館にやってくるようになりました。この前も、主夫をしている友人が、1歳3ヶ月の息子とともに、やって来ました。かわいいなぁ。ぽやぽやの髪の毛で、僕の食べていたおにぎりのかけらをあげたら、ニコニコ、モリモリと食べている。たべおえて、「アブ、アブ、アブ」とか騒いでいるので、僕は「もうだめだよ、僕の食べるのなくなるからね」とお話なんかしていたのね。彼はすごくご機嫌で、今度はお父さんの方を向いて、「アブ、アブ、アブ」と話しかけ始めたのだけれど、そうされると、まぁ、たいていのお父さんたちは、なんだかごちゃごちゃと顔を崩して、「アブ、アブ、アブ」なんて言ってしまうんだな、これが・・・・・・。
 もちろん彼は、「アブ、アブ、アブ」ということを話したいのではない。なにかちゃんとした話をしたいのだよ、多分。ちゃんとしたって、ちゃんと意識を伝えあうと言う意味で、ちゃんとした。
 彼らが、「アブ、アブ、アブ」と、何を伝えたがっているのか考えながら、ごく普通に、彼らに答えてゆく。わからないところは、彼らに聞けば良い。
 小さい頃のお父さんの絵は、大きい丸の中に、小さい三つの丸しか無いでしょう?あのころ、僕達の関心の中心は、お父さんの、目と口だけだったんだということが、そこから逆にわかってくる。
 だから、僕はきちんとお話したい。まだ、あまりうまく回らない舌で彼らがお話していることに耳を澄まし、それに、普通にお答えする。
 こんな感じに、割と、彼らの話しかけに、失礼なお答えをしているみたいなことって、案外多いんじゃないのかなぁ、どうだろうか。

平成3年4月27日

 なにしろお休みの日が同じなので、なかなか行けなかった「仙台市科学館」に、この前やっと行くことができました。面白かった。あえて言いますが、はっきり言って、子どもと行くのなら、美術館より科学館でありましょう。科学館を含めて動物園や水族館なんかが面白いのは、そういう所が、遊びなんだかお勉強なんだか判然としないまま、しかし面白いと言うところなんだと思うんだな。生活のなかの疑問を解決し、そこから得た情報を使って、再び生活を見直して行くって言う様な意味での「勉強」は、すごく面白いんだがなぁと言うことを、僕は子どもたちに伝えておきたい。
 子どもたちは、すでにここに来たことがあったのですが、今度僕と一緒にまわってみて、再び面白がっていました。子どもたちと一緒に科学館をめぐり歩いてみると、思春期以前の人たちに必要な情報や知識というのは、極端な言い方をすれば、自然科学がそのすべてではないのかなぁと思えてしまいます。僕の家ではお姉さんは中2になりましたから、人との関係からアプローチした自然科学についても会話は弾み、動物としての1人の人間の、外側からと内側からとのせめぎあいのうえにある物事の認識についてと言うような、なにやら深そうな事柄についても、理屈っぽいお父さんは考えてしまったりしたのでした。
 科学館を楽しむ秘訣は、めげずに解説の文章を読んで、みんなでどういういことなのか検討しながら展示物を見てゆくこと。展示されているものはゲームではないということをきっちり確認しておいたうえでやるって事かな。
 なにはともあれ、この次は、僕1人で1日ゆっくり見に出かけることにしようと、お父さんは密かに考えているのです。

平成3年5月25日

 この前の休みに、母親と山に行きました。もちろん、家のすぐ近くの、山というより丘の尾根を、ぶらぶらと歩く、と言うような。
 この辺では一番高い丘を目指して、春の芽吹きのピンク色から初夏の黄緑に変わりかけている雑木林の中の踏み分け道を、子どもたちもいっしょに、先になり後になりしながら彼女と歩きました。独断で言ってしまうと、大正末から昭和初め頃に生まれたおばあちゃんたちというのは、こういう所では、あんまり景色なんか見ませんね。下ばっかりみて歩いていて、次から次と道端に小さな草花を見つけては、感嘆の声を上げると、そう言う歩き方になるわけです。そして、子どもたちを呼んで、その可憐さについて、ちょっと話します。もちろん「子どもたち」には僕も含まれます、当然。
 自然の中に行くと、僕たちは、なんだかいろんなことを知っていないとつまんないんではないかと思ってしまいます。花の名前とか、木の名前とか、鳴いている鳥の名前とか、雲の形から明日の天気は晴れだとか、それから、それにまつわるエコロジカルなさまざまな問題と、地球の行く末と・・・・・・・。
 彼女と歩いていると、でもまぁ、そういう事は、まずはどうでもいいんだなと思えてきます。多分一番大雪なことは、その小さな花を見て、感嘆の声をあげられるかって事なんだな。古い大きな木を見て、立派だねと言えるかって事なんだな。身の周りのいろんな事を、興味深くみつめ、まずびっくりし感動する。どうもこの辺が、僕が、彼女から教えられ、そして彼女たちに伝えて行くあたりなんではないのかなぁ。
 お母さんの言うことって、やっぱり、なかなか面白いね、いつ聞いても。

平成3年6月22日


 ううむ、だめだなぁ、今日は天気が良過ぎる。なにしろ、梅雨の晴れ間で、雲一つ無い快晴で、気温も10度代の後半だし、そしてこの時期のこい緑の山、なんて日はめったにありませんよ。こんな日に、ワープロに向かって、子どものことを考えながら何か文を書くなんてことをするの、僕はいつまでたっても慣れませんねぇ。たぶんみんなそうなんでしょうけど、言わないだけで・・・。言っても無駄なんだろうか。

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こういう日に考える正しい内容というのは、「僕が、ひとりで」なにをしたいかということでしょうね。したいことが、そんなにたくさんある訳ではないけれど、やり始めれば、確実に1日以上楽しんでしまえる場所や、ことが、いろいろ頭に浮かんできて、それを考え、点検しているだけでも、今日の朝の通勤は幸せな気分だったなぁ。やっぱり、天気が良い日は気持ちが良い。
 僕は、割と都合の良いことに、遊びに関する頭が、18歳くらいで止まっているようなので、あまり彼らのことを考えずに遊びまわる事にしています。僕ができるだけ楽しく遊んでいることに、彼らが一緒にまざってくると、そういう関係でしょうか。だって、絶対、いろんなこと僕の方がうまいし、面白いことも知ってるもんね。多分ゴルフなんかでも、相当一生懸命やってれば、子供たちとも、一緒に遊べるのではないかと、僕は考えたりするのだけれど、そう言うと、怒る人もいるだろうなぁ。
 暇なときに、僕がなにをしたいのかについて、いつも良く考えておきたいと思います。暇なときに、僕が行きたい所を、いつも自分で探しておきたいものだと思います。子どもの頃、そんな事いつもやっていたような記憶があるのだけれど、大人になった今こそ、必要なのではないのかなぁ。

平成3年7月27日

 だいぶ前にこの欄で、子供の靴について書いたことがあったのですが、その人が、今はもうずいぶんと大きくなってしまって、もう子供の靴というジャンルではなくなってきているのです。この前の休みの日に、僕たちは一日、街をめぐり歩いてそのことを実感し、「よし、こうなったら、きちんと良い靴を買ってあげようじゃないの」と、お父さんとしては、思い切って、財布のひもをゆるめたのでした。僕がはいているのと同じレベルのエア−アシストのスニーカーの代金を払うときに、彼女は、ちょっと高すぎるんじゃないかしらんと、家計のことを心配してくれたのを、僕は何だか感慨深く聞いていました。
 ううむ、この人は、もう少女というより若い女性というぐあいになってきているのだなぁ。最近のこの人との話も、どっちかっていうと、新米女性事務員との会話っていう感じだもんなぁ。この人の方が若い分真剣で驚きに満ちていて、うかつに冗談言えないときもあるもんなぁ、なんていうことを、僕はそのとき考えていたのでした。
 僕たちが思っているよりきちんと子供たちは僕たちを追い越していっている。僕たちのやってきたことを同じように積み重ねていっている。彼女との話からうかがい見るに、たいていの子供たちは、どうも、誰にも相談なんかしないで、1人で悩みながら、涙を流して問題を解決している。
 すまんなぁ、25年ほど前は、僕も同じだったって事をほとんど忘れちゃって、ついお父さんみたいな口をきいちゃうもんなぁ。
 初めての本物のスニーカーと同じにいろんなことが初めて彼らの前に表れるこの時期、どういう態度が、正直真剣というものなのかについて、僕はちょっと、襟を正してみようと思います。

平成3年 8月31日

 朝方まだ夜が明けない時分、何かの気配にうっすら目をあけると、枕元にすその広がった白い布のかたまりのようなものが、こじんまりと静かに立っているというのはあまり気持ちの良いものではありません。しかし、小学生の子供がいる僕の家では、こんなことが時々おこります。それは、怖い夢を見ておきてしまった小さい人が、タオルケットと枕を持って、お父さんのふとんにもぐり込もうかどうか、ちょっと考えている姿なのです。そういう時って、おとうさんの方も、よほどのことが無いかぎり、なんとなく目がさめるよね。怖い夢を見た人は、そのあとお父さんの布団をほぼ独占して、もう一眠りし、今日も忙しいのに、朝早くおこされちゃったお父さんは、そのあといろんなことを考えながら、布団の片隅で時間を過ごすことになります。しょうがねぇなぁ。
 とは言え、こわいこともふくめていろいろ想像するのは、楽しいことだと思う。普通のときの体験を組み合わせて、思いもよらない状況のときの、自分の心の動きを思ってみるのは、練習しておいたほうが良いのではないかしら。
 本当のことをいえば、私はおっかながりやなのである。夜や暗いところは嫌いなのである。誰もいないプールで泳いでいると、どこからともなく「ジョーズ」がきて足の先をがぶりと食べられてしまうのではないかと鳥肌ができてしまう人なのである。空想好きの少年は、あまりにリアルなイマジネーションを持つ大人になってしまい、で、想像しておっかながるのである。
 ううむ、そうすると、お父さんがこわい夢を見たときには、誰の布団に行けばよいのだ?小学生の人の答えは、「私の所に来て良いよ」だったので、僕は、少し安心な気持ちになっています。

平成3年9月28日

 新しく、よく考えられた役が本が出たので、、このところ「ファーブル昆虫記」をまた読んでいるんです。地球の上で生きている物って、本当にすごいんだなぁ。
 お友達の保育所の先生から電話があって、その保育所のこれまでをまとめた「子育て」という本をだしたから、読んでみてとのことだったので、1冊買ってきて読みました。そして、その本でも、地球の上で生きている物って、本当は、ほんとにすごいんだなぁと、3回くらい泣いてしまいましたね。なにしろ泣けるときには泣くことにしているので・・・。で、ね、保育所の話を読んでいて、まぁよくいろんなエピソードを記録してあったのだねぇと、感心してしまったのですよ。やっぱし集団で子供育ててるからなのかなぁ。
 僕のことを振り返ってみると、僕は僕の子供たちの昔のエピソードなんかほとんど忘れてしまっているのじゃないかしら。まさにはえば立て、立てば歩めの親心で、昨日まで、やった遣ったと感動していたことでも、それができてしまうと何だか急に赤ちゃんじみて感じられて、どんどん次のことっていうのが気になっていくのね。昨日までの彼らのことなんか忘れちゃってるなぁ、僕は・・・。
 黄金虫や、蜂なんかも、結構、しっかりと子供を育ててしまうでしょう?誰にも教わんないで、次々と子育ての手順を進めていくんですって。多分、僕も、1人の人間の雄としては、虫たちと同じレベルで、本能的なのだと思うな。どんどん次のことが気になるということはね・・・。
 とすると、僕たちの「知性」というものは、一体このあたりの問題にたいしては、どういう風にかかわっていくんだろうねぇ。何だか、ちょっと緊張しますね、人間やっていくのって。

平成3年10月26日

 最近僕のまわりで、転職する人が多い。しかも、これ以上地球に迷惑をかけたくないので、先生からお百姓へとか、子供と遊ぶ時間をもっととりたいので、サラリーマンから自営業とか、結構たいへんぽい方向への転職。僕の父親(大正13年生まれ)にその話をすると、そういうことの無謀さとたいへんさ、具体的な生活のことを自覚していないのではないか等々、それこそ否定的な見解をゴマンとあげて、そんなの甘いってりきむのね。いやいやおどろきます。でもねお父さん、そんな考えは甘いという態度ってさ、たとえそれが失敗したとしても、実行したのだから、やってしまった人の方が甘くない態度をとったっていう点で評価できるんではないかしら。それは甘いというのは簡単だけれど、その人がやってしまったとたんに、甘いと言っていた人の方が、言うだけでやんないという点で、甘くなっってしまうわけで、少なくとも、僕は、やってしまうというそういう肯定的な人生の方にこそ、拍手を送りたい。ちょっと無責任な気もするけれど、でも、あえて・・・。
 最近中2の人と、お話をしていると、ちょっと心配になってくる。あのさぁ、勉強ってさぁ、こっちにあるもんなんだぜ。自分が生きていく上で、したいことを見つけ、それを社会的な形で肯定的にして行く。そういうことを助けるために勉強するっていうあたりが大切なところでしょう?勉強したいのはこっちなんだよね。そのために、高校に行くとか大学がどうのとかいうのは、勉強の必然の順番としては、だいぶ後なんではないのかなぁ。
 あまいっていうのは、わかる。しかし、それを言ってしまうと、言っていた人の方が甘くなってしまうっていうのも、お父さん知っちゃっているからなぁ。

平成3年11月23日

 誤解を恐れず言えば、若い人というのは、「なまいき」なんである。僕もそうだった。いまでもそうかなぁ。そうだといいなぁ。
 もっと言えば、若い人というのは、「口先だけ」なんである。僕なんか、いまだにそうだ、と、思う。僕は、美術館で、美術と美術館に関するさまざまな相談にのるという仕事をしている。相談は本当にいろんな内容があって、それはそれだけで、また別のお話になってしまうけれど、自分の子供を含めて、僕よりずいぶんと年下の人たちとお話をしていて、本当にうんざりするときが、かつてはだいぶあった。
 「この野郎、なまいきなこと言うんじゃねぇ」。
 とまぁ、それはいい。で、しかし、ふとわれにかえって考えてみれば、若い人たちから「なまいきな口先」というのをとってしまったら、いったい、何が残るというのだろうか。なまいきに言ってみたことをやらせてもらえるわけでなし、たいていは、お金も社会的なポジションもないので、口先だけになっているわけで、ううむ、こりゃあ、しょうがないんだよなぁ。
 大人が社会を動かしているかぎり、だから、若い時代にできることは、「なまいき」を言うこと、「口先」だけでもいいから、「それはちがう」と言うことなのではないだろうか。彼らの「へ理屈」に、きちんと意見を述べられる大人は、実は、あまり多くないのではないかという実感を、僕は、高校生以来感じている。
 ところで、問題は、そのような「なまいきな口先だけ」の若い人が、最近急激に減ってきているのではないかと思えることなのだ。そういう社会は、だんだんダメになっていくのではないのかなぁ。
 子供たちの、「なまいき」なお話に、ちょっと、耳を傾けてみようかと思う。