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平成13年1月27日

 去年、あなたの家には、サンタクロースが来た?僕の家では、もう来ないんじゃないかという気配が濃厚だったのだけれど、うふふ、ちゃんと来た。23歳と19歳の娘たちが、朝起きてみると枕元にプレゼントがあって、あ、サンタクロース来たんだなと、少しほっとするような、ちょっと申し訳ないかなというような、複雑な顔で、部屋から出てきた。でも、そんなことはあたりまえだ。あなたたちは、この1年、一応、良い子どもたちではあったのだからね。で、今回は、何と!お父さんとお母さんの枕元にも!プレゼントが!置いてあったのだ!
 僕らは親になってからもうだいぶたったので、サンタクロースのことなんかすっかり忘れてしまっていた。だから、朝起きて顔を洗いに行って着替えをし、布団をたたみに戻ってみて、ふと、枕元に、きれいな包みがあることに気づいたときには、ちょっと動揺しましたね。「何と!お父さんのところにもサンタクロース、来ちゃったようだぜ!」「あら!お母さんにも来てる。」。まったく、どういうことなの。私たちは手を取り合ってうろたえまわりました。こんな言い方へんだけれど、でも、うろたえて、踊りまわるというような感じ。そして、それを見ていた娘が、「あなたたちも、今年1年、良い子どもだったんじゃないの。」と言うのね。ちょっと、泣くよね、こうなると。
 サンタクロースが、実際にいるかどうかなんてことは、本当は、どうでもいいことなのだ。ただ、彼をめぐって、たとえば、このような状況が無理なくおこり、そして、それは、彼がしたことなのだということを、肯定的にその集団が楽しめる生活を持っているかどうか。それが、彼がいるかどうかという問題の、正しい答えを考える、大切なヒントなんだと思う。ううむ、お話の本をどのぐらい読んでいるか、なんてことが、こういうときにきいてくるのかな。

平成13年2月24日

 すっかり葉が落ちてからりと明るい、この季節の静かな雑木林を歩くのが好きだ。でも、注意して耳をすませば、雑木林は、普通、様々な音に満ちている。鳥をはじめとするさまざまな生き物のたてる音、風や水の流れる音、僕が通り過ぎてゆくためにおこる音、そして、遠くから絶えず聞こえる車が通っている音。ときどき立ち止まって、そういう音を聞くのも、僕は好きだ。1月の半ば、邦楽の演奏会があって、橋本敏江さんという女の人が弾き語る、平家琵琶を聞いた。聞いたことがある人はわかると思うけれど、本物の平家琵琶というものを聞くという行為は、実に不思議な体験だ。音のキーがどこにあるのか探っているような不安な調子で始まり、文章の語尾を長くクルクルと引き延ばしながら、広いコンサートホールいっぱいに日本語が満ちてゆく感触。時に合いの手のごとく「ジャラン。」とはいる琵琶の音。西洋音楽に慣れた耳には、まるで何の約束事もなく、でたらめに弾いているかのように聞こえる緊張感。
 でも、演奏が続き、緊張になれてくると、身体を包む空気はむしろ柔らかい風のようで、心が、美しい日本語の満ちた暗闇の中に、ニコニコと開いてゆくのが見えるような気になってくる。僕の目の前に広がってきたのは、静かな、しかし、自然の音に満ちた雑木林の中を、一人で駆け抜けてゆく風景だった。いやはやなんとも。琵琶を弾くって、こういう状況を起こすことだったのね。
 私の主張の表現としてだけ音を出すのではなく、まず、そこにある様々な自然の音に耳を傾け、すでにそれらの音がある空間に向けて、私の音も混ぜてもらえるとしたらこんな感じかな、と音を流し込む。そうか、そっち側から始まる「音、楽しみ」(だから音楽ね。)っていうのもあったんだよな。

平成13年3月24日

 もうすっかり大人になった人が尋ねてきて、美術館で、僕が子どもたちと一緒にやっている活動を見た。そのあとで、「私が幼稚園だったころに、齋さんとやった活動と同じなのでうれしかった。」というような感想を言っていた。そうなの、僕の活動は、このところ、だいぶしばらく、ほとんど変わっていないのね。 時代や、環境が変わったとしても、人間の子どもが、興味を持って集中する対象というものは、そんなに変わるものではない。むしろ、僕には、それにつきあっている大人が、子どもが集中している、たいていはその子どもにとってとても大切な作業に飽きてしまって、その子どもが集中することのできる様々な環境を、いかにも君たちのためですよという風なことを言いながら、しかし、むりやり変えているように見える。そう、大人が変えているのだ。そして、あげくのはてに、最近の子どもは変わった、わからなくなった、ということになる。子どもがわからなくなったのではない。私たち大人が、飽きてしまって、変えてしまって、わからなくしてしまったのだ。私たちだって、全員が、少し前までは、子どもだったのに。
 子どもの視線に立つと言うことは、私も、ちょっと前は子どもだったということを思い出すことということなのだ。そのうえで、しかし私は、子どもであるあなたより、もうだいぶ長く生きてきた、というあたりでの知恵を絞り出す。そういうことができる、ということこそが、大人だということなのだと、僕は考えている。だから、子どもと一緒にやることは、私が、ちょっと昔、両親と一緒にやったようなことで良いのだと思う。しかし、そして、だからこそ、今、私が、こうしてここにいるという意識は、できるだけ深く、広く、柔軟に持ちたいと思う。
 さて、突然だけれど、今回でこのコラムは終了する。長い間、本当に長い間、読んでくれてありがとう。またいつか、どこかで。