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平成2年1月27日

 朝6時45分に、僕の家では目覚ましロボットが「時間だから起きろ!」と騒ぎ立てます。ううむ、しかしこの時期、布団から抜け出すのはつらい、と思っていると、子どもたちが僕の布団にもぐり込んできます。僕は子どもの体を抱いてもうしばらくうつらうつらしています。ほとんど至福の時間といっていいですね、こういう時間は。彼らの体は、ぽかぽか、すべすべ、むくむく、ぷりぷりとしていて、触っていると、お父さんは、心の中から優しくなってしまうのだなぁ。人間の体って、すごくいとおしいものだったんだなぁと、しみじみ感慨にふけってしまいます。
 この人がまだ赤ちゃんだった頃、抱き上げるときゅっとしがみついてきたときの小さな手にこもった力の感じなんか思い出してしまったりすると、もう、たまりませんね。これをなんとかしてあげたいと思う、そういうあたりが、人間が人間を教育しようとする原点なのではないかしらと思いますね。
 彼らの体を触りながら、僕の体も点検してみます。ううむ、なんだか最近いとおしんでいないよなぁ、自分の体・・・。僕の体も、こういうすてきな体だったんだよなぁということに思いいたると、普段酷使し続けている自分の体のことも、ふと我にかえって、いとおしんであげなくっちゃという気持ちになってきます。
 自分の体をいとおしく大切にしていないと、どうも、他人の体だっていとおしく大切に思えなくなってしまうのではないかなぁと、僕は最近考えています。自分自身の体を愛し、いとおしく思うことから、自分以外の人や物とのお話が始るのではないかしら。
 子どもの体に触りながら、僕は自分の体について思いを巡らせ、そして決心をして、布団から抜け出すのです。

平成2年2月24日

お風呂がね、小さいんです、家のは。だいぶ昔に作られた団地ですからね、まあしかたないんですけど。
 子どもたち2人と3人一緒には、もう入れなくなってきました。子どもと一緒にお風呂に入るのって、面白いことは面白いんだけれど、真剣につきあっちゃうお父さんとしては、結構ハードな作業だったりもするわけで、本当は少しほっとするところもあるな。そうか、君たちは、もう自分で背中を洗えるようになったんだねえ。さて、体を洗って、肩までお湯につかり、すっかりリラックスしてくると、自然と歌を歌い始めるというのが、正しい子どもとのお風呂の入り方というものでありましょう。
 そしてそういう場合、「でたらめ歌」を歌うというのが、より楽しい(正しいではありません)「音、楽しみ」(「音楽」ではありません)というものであろうというのが、僕の考えです。言葉と音の流れって、こんな感じに心がポワポワしてるときに、向こうからひょいとやってくるもんなんだってことを、僕は、ウィニ−・ザ・プ−(A.A.ミルンの書いたプ−熊さんの物語の主人公の熊)から学びました。で、やってみるとわかるけれど、結構難しいのね、これを捕まえるってのが。先に何か決まってないと歌えなくなっちゃってるわけですよ。ずうっと大きくなっても、すぐ捕まえられるようになっている人が上手な「音楽しみ家(ときに音楽家と短く呼ばれたりする)」になるんだと思うのね。
 でたらめ歌を楽しんでいると、音を楽しむためには、ドレミなんか、本当はどうでもよかったんだよなぁということがわかってきます。で、「音を楽しむ」っていうのは、「耳をすます」ってことと一緒だったんだぜなんてことを、雪の降っている夜のお風呂の中でお父さんは話したりするわけね。

平成2年3月24日

 雑誌で「渋カジ」というファッションの特集を見ていたら、子供たちが、「なぁんだ、これ全部お父さんが持っているやつばっかじゃない。」と言うわけね。それはあたりまえなんだよな。これって、しばらく前にはやってた「ヘビー・デュ−ティー」ってやつの、もうちょっとナヨっとなったやつなんだもん。で、お父さんの持っているのはヘビー・デュ−ティーなんであって、渋カジではないんだよね。それが、ファッションだったのは、まだ大きい方の娘が、朝起きると僕の布団にもぐり込んできて、一緒に新聞を読んだりしていた頃のことで、その新聞に出ていたのを一つずつくぎりながら読んで、「お父さん、ヘビー・デュ−ティーってなに?」ときかれたことがあったっけ。よぉし、良い質問でないのと、その頃初めて買ってあげた、子供用の、しかし本物のスニーカーと、それまではいていたペナペナ底の子ども靴との、走ったときに感じる膝の裏のくすぐったさの違いや、ただの子ども用自転車と、競技用BMXとの、空気をかきわけるときの違いや、僕の着ている、やたら重いけれど、どこにでも着て行ける米軍の軍服のことや、もう3回も4回も靴底を張り替えて使っているワークブーツのことやなんかを、僕は話してやったのだった。
 僕たちの国では、ヘビー・デュ−ティーすらもファッションになってしまう。目的にあったとか、使いやすいとか、僕たちが物を選ぶときには、さまざまな基準があるけれど、一番大切なのは、それが自分の五感を、拡大、解放してくれるかどうかって事だと思う。それとも逆かな?子供のころから五感をフルに使っていれば、何を選べば良いか自然にわかってくるのかな。
 なにはともあれ、人生にはライト・デュ−ティーなんてのはないんだからね。

平成2年4月28日

 歳とともに涙もろくなっていることをいいことに、泣ける機会にはガンガン泣くということにしているので、期待を胸に、ハンカチも胸に、小学校の卒業式と中学校の入学式とに出てきました。でも、たくさんのお母さんたちの中に混じって「彼ら」が講堂に入ってくるのを見ていたら、わいてきたのはちょっと違う感慨で、僕は少しうろたえてしまいました。そうか、僕たちは、こんなにたくさんの子どもたちを作ってしまって、「彼ら」はもうこんなに大きくなってしまったのだなぁ・・・・。
 仕事がら、「彼ら」と接する機会は多いのですが、そのつきあいかたの基本は自分の子どもという一人称であったのだということを、僕は改めて考えてしまったのでした。
 どういう風に考えたらいいんでしょうねぇ。「この人」のためになにができるか、という考えを「この人たち」のためには、なにができるかという風に拡大してみると言ったら良いんでしょうか。「この人」のためには良かれと思って、だいぶん世話をやいたりしてきたわけですけれど、それがそのまま「この人たち」のためになっていることって、案外なかったんじゃないかしらん。単に世代的な問題もあるかも知れないけれど、様々な環境の崩壊についてだって、「この人」のためには何だかしょうがないと思えてしまうことも、「この人たち」について思いを巡らせば、だいぶんやばそうなことを、僕たちはしてきてしまってるんじゃないのかなぁ。
 「団体」から発想した「社会」ではなく、「個人」から発想した「社会」の行く末について、卒業式や入学式は、「大人」にある決心を迫るためにもあったのだなぁと、新米のお父さんは、何だかすまんすまんという思いを胸に、窓の外の青空をみていたのでした。

平成2年5月26日

朝、僕の寝ている頭の上に座り込んで、お姉さんが妹の髪を結ってあげている。それはいい。しかし、もう大分長いあいだ、ああでもない、こうでもないとやっていて、本当のことをいうと、お父さんとしては、もういいかげんにしたらどうだいと言いたいところなのだがねぇ。でも、髪の毛をなでたり、なでられたりって気持ち良いもんなぁ、しょうがないのかもしれないなぁ。そう言えば、僕はここ2日、ひげをあたっていない。ちょっとザラザラになってきたなぁ。もともとひげが濃いという方ではないから、触ってみるとホヨホヨと手の平にあたる感じが何とも快感だ。「おおい、今日のお父さんのひげ、ちょうど気持ち良いぞ、触ってみるかい」。彼らは僕のあごをくすぐったいくすぐったいと言いながらなぜ、僕は、彼らのホコホコのほっぺたのスベスベさを楽しむ。いったい何がはいってるんだろうねぇ、君たちのそのピンクのほっぺたの中には。
 美術館に子どもたちがきて粘土遊びをする日、僕はわざとひげボウボウででかけて行ってお話をする。ほらこれが、ザラザラっていうやつで、そして、君たちのほっぺたが、スベスベっていうものなのよ。今度お父さんがひげ剃る前に、ちゃんと触らせてもらうといいと思うな。無理矢理ゴシゴシ、痛いだろうってんじゃなくて、そぉっと、ちゃんとね。
 そうして、あなたのほっぺた。何とまぁポヨポヨと丸いのだろう。世界中の子どもたちが、と言うことは、少し前まで子どもだった世界中の大人たちもやっぱり、みんなこんなほっぺたを持っているなんて、人間もなかなか捨てたもんではないな。かわいくない人間って、ほんとはいないんだと思うなぁ。問題は、だから、その中味なんだよね。
 さて、君たち、そろそろでかける時間のようですよ。

平成2年6月23日

 中学生になった人が、ついこの前、おばあちゃんに「制服一揃い」をしつらえてもらったばかりなのに、6月からは「夏の制服」がいるんだと言うじゃありませんか。おお、そうだった、制服っていろいろあるんだったねぇ。ようし、今度は僕が買ってあげよう。何と言ったらよいか、僕の家に「制服」ってもんがやってきて数カ月たってしまいました。20年程前、元気な高校生として「制服廃止」なんてことをまじめに考えていた世代の一人としては、ここに来て、ちょっとどういう感じになるのかなぁって所があったのね、自分の子どもがそれを着るって事になったときに。
 合理性と機能性だけから考えてみても、実際には案外「制服」って実用性に欠けてるんじゃないかなぁ。あれを着て、美術館に見学に来て、ついでにちょっと粘土遊びをしてゆこうって人たちを見るにつけ、気の毒でしょうがない。
 あれの必然は、どう考えても、着る方ではなくて、着させる方にのみ存在しているように僕には思えて、普通の大人になるための実際的な勉強をするときに着る服ぐらい、自分で決めればって感じがするんですけどねぇ。
 とはいえ、そんな僕の考えとはほとんど関係なく、彼女は、一つ洋服が増えたって喜んでいるように見えるんでちょっとコケてしまうんだなぁ。そうか、君らの間ではそこまでファッションになっちゃっているわけね。「制服」がファッションの一つとなってしまえば、僕等があの頃考えていた、やめたいのは制服そのものでは無くて、「制服的な考え方」と言うものなのだってあたりのことが、もう具体的に始まっちゃってるってことだから、めでたしめでたしのはずなんだけど、どうも、違うような気がするのは、お父さん、やっぱし歳とってきたのかなぁ。

平成2年7月28日

 私は、今、ちょっと風邪をひいている。ここ4日ぐらい鼻がグズグズいっている。昨日、ティッシュをまとめて1パック買ってきた。としても、やっぱり、年に何回か、雨にぬれて遊ぶってのを、やめるわけには行かないじゃないの。あれって、結構面白いんだよ。まだ小さい子どもたちと一緒にいるとよくわかることなのだけど、毎日というのは、実にドラマチックに過ぎて行く。日々これ、緊張と興奮の連続だ、というお母さんもいたりするわけですね。で、そういうお母さんたちが、子どもたちと、何をして遊んだらいいのでしょうという相談をしに来たりする。さて、今まで何して遊んでいたの、ですよね。
 黙ってみていると、子どもたちは、何だか変なことをして時間をつぶしているように思えます。ティッシュを一枚ずつ延々と箱から出してみるとか、偶然いたテントウムシのために、ベランダに線路をひいてあげるとか、水たまりの水を、長靴でビシャビシャし続けるとか、何だか変なこと。で、その変なことのつみ重ねで、しかし充実した一日がまた一日積み重ねられるわけです。
 ふと心が動いた、何かいきいきした物やことを、きちんと納得いく方法で納得する、というようなことを通して、彼らの毎日は積み重ねられているのではないかしら。
 毎日一緒にいるわけではない彼らと、一緒にいられる時は、だから普通に、しかし、できるだけきちんと納得のいく方法で、時間を過ごして行く、っていうのが、はりきって言えば、お父さんのやり方でありたい。
 で、雨が降ってきたなら、雨が降ってきたなりに、雨にぬれながらお散歩にいってみればいいだけの話で、ただ、その後始末をちゃんとしないと、風邪をひいちゃうぞ、ってのは、また別の話だな。

平成2年8月25日

川を、見つけちゃったのね、わりと近くの山の谷間に。で、行きましたよ、今年の夏休みは、その川に。
 一家揃っても、子どもたちとも、子どもとそのお友達とも、それにもちろん一人でも。いついっても、誰といっても、ほのぼのとするのね、そこにいって、水の流れている音を聞くと。楽しかったのではないし、面白かったのではないし、というより、楽しいことも、面白いことも、何もしないわけ、そこでは。だから、ほのぼの。川には、古いカーテンで作った日よけと、水中眼鏡を持って、お昼近いときには、固形燃料を使う小さなストーブと、アルミの食器セットも一緒に袋に詰めこんで、途中のスーパーマーケットで買い物をしながら、ゆるゆると移動していくわけね。あ、そうだ、下着を含む着替え一式というのも、忘れてはいけないものだった。ま、本当は無くてもなんとかなるけどね、これは。
 で、そこについて、日よけをセットしたら、もうあとはしばらくぼんやりしているわけ。すると、少し暑くなってくるので、子どもたちと一緒に、石を積んで、ちょっとした水たまりを作って、肩までひたるのね。気持ちが良かったら、そのままぶくぶくと頭まで沈んでしまって、水の流れに、しばらく流されてみるのもよい。もちろんこれは、普段のままの着衣にて行う、というのが正しい姿勢というものでありましょう。その時、水中眼鏡をかけていると、なんだかすごい世界をかいま見ることもできたりするけど、そんなことはしなくても、十分に満ちたりた気持ちにはなれます。あと、岸の岩の上から、できるだけ水しぶきをあげて、その水たまりにジャンプするってのも好きだな、僕は。
 何もしなくても、そこにいるとニコニコしてしまう所、僕んちには、今年の夏、一カ所、できたという報告。

平成2年9月22日

 夏休みに見つけた川ね、この前しばらくぶりにいってみたわけですよ。そしたらおどろいたことに、すっかり様子が変わっちゃっているのね。たった2〜3回の台風だけで、山の方の川ってこんなに水が出ちゃうんだってこと、頭では知っていても、やっぱり驚きです。で、どんなふうに水が河原を押し流していったのかを点検しながら、みんなで驚いて、しばらく時間を過ごしました。驚くのって、おもしろいよねぇ。まず石がすごい。絶対に動くはずが無いような大きな石がどっかに行ってしまっている。なるほど、あの石はどっかからここまで流されてきてここにあったわけね。それに、この前来たとき遊んだ岩の階段、すっかり石に埋まってしまっている。あんなに広かったのにねぇ。川岸がえぐり取られてしまっていて、すっかり堤防だと思い込んでいた所の中から、柳の木が首をだして、緑の葉っぱを風にそよがせているってのもすごい。あの枝のつきぐあいからみると、あの木は、ずうっと土の中に埋まっていたんでしょ?立派な柳である、と言うしかないな。
 で、もっと驚いたのは、その川のそばに住んでいる人が、「こんなの、まだかるいほうですよ。」と、ぜんぜん驚いて無いってことだな。そうだよな、台風んときの広瀬川の水って、全部山の方から来るわけだからねぇ。
 もちろん、こういうことは、みんなよく知っていて、いちいち驚いていることもないのはわかるのだけれど、時々、練習のために、彼らと、びっくりする物や事探しと言うのをやってみるのも、面白い。何に驚くのかっていうことを、ちゃんと伝えておかないと、あとで、ずいぶん困ったことになることが多いように、思えるんですけど、どうでしょう。

平成2年10月27日

 今、階段をかけおりてきて、急いでこれを書き始めているのだけれど、ううむ、これがいけないな。息がきれている。そうすると、たとえばせっけんがきれてしまっていて、買いにいかなければなぁと思っていても、なかなか動けず、いつのまにか、合成洗剤の小さな箱が洗濯機の脇に出現してしまったり、この文を打っているワープロの周りに、読みかけの文庫本や雑誌が、いったいいつ読み終えるのだろうとうんざりしてしまうほど積み上がってしまったり、自動車はぴかぴかなのに、いつも使っている自転車は、泥だらけだったり、と言うようなことになってくるんだよなぁ。息切れは、なにかの象徴なんだよね。
 小さい子を見ていると、彼らは、息ぎれしない。そうとうへんてこに激しい活動をしているのに、息ぎれしていない。彼らと一緒の行動を僕がすると、僕も息がきれて、そして、彼らも息がきれてくるところがおもしろいじゃない?
 「息がきれるようなことを、しない」のではなく、「息がきれないように、する」ってところがこつなんだとおもう。
 どうもいろいろさ、結果だけを問われることが多いでしょう? それから、何かを成就しない活動ってのも、なんだか、いけない事しているような気になったりね。
 でも、行為の過程とか、いっけん無意味な活動の最中に感じることとかっていうのが、本当の意味でおもしろい事っていうんじゃないだろうか。そういうことを忘れてくると、なんだか息がきれてくるみたい。体力とかとはあんまり関係ないんだと思うな。
 僕の息ぎれの原因はわかっている。むむむ、だ。
 まずは深呼吸して、みんなといっしょに、自転車の掃除あたりから、立て直しを始めようかな。

平成2年11月24日

 今、朝のお茶を飲みながら、窓から外を見ていたら、今日はすごく気持ちのいいお天気で、外の芝生に、ポカポカと日が当たっていました。しょうがないなぁ、本当は仕事を始めるはずだったんだけど、僕は、窓から外に降りて、そこに日向ぼっこにでかけましたよ。とにかくさ、気持ち良くて、快適だっていうのを見つけたら、できるだけやっておくっていう習慣を、僕は身につけていたいものだと思うのね、この頃。
 ただ、なんていうのか、「快適だ」っていうのと、「ただのぜいたく」っていうやつとの違いが、僕たちの国ではどうも相当に混同されているような気がするので、そこんとこよく注意しないと、お金ばっかしかかったり、かけたりしたわりには、どうもいろいろな人や物に、ご迷惑をお掛けするってことになってしまうようなんだよね。
 たぶん、「過剰に」という言葉が、鍵だと思うな。
 食事を作って、みんなで食べる。後片付けをする。体を動かす。子どもと散歩して、景色を見る。そして、勉強したり、彼らを育てたりする。ほら、慌てず、「われにかえって」やれば、なんだか、全部気持ちよくて、快適にやれるように、僕には思えるんだけれどねぇ。
 「過剰に」がついても、これなら許せるなぁ、と言うものは、趣味や、それにいくぶん芸術なんかになっていくんだろうから、逆にいえば、あんまり趣味や芸術にしない方がいいものには、「過剰に」を付けないようにしないとまずいよなぁ。これ、割と、逆になってることって、多いでしょう?
 子どもたちと一緒に、気持ちのいいことをやってみていると、この人たちは、「過剰な常識」ってのがないので、こういうの見つけるの上手なのかもな、と思うことが多いけど、このへんが、最も大切なのかも知れないね。