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平成4年1月25日

 1月15日は、「成人の日」で、日本中がお休みです。僕はこの日の由来を調べていないのだけれど、いったいなんで、国民の休日なのだろうねぇ、成人になるってことが。
 成人の日、大学で美術を勉強しはじめたばかりだった僕は、一応、町の成人式に出席したのだけれど、式が始ってすぐ、「出席は、まったくの間違いだった」ということに気づいて、しかし、途中で退席する勇気もなくて、ずうっと下を向いたまま困ったなぁと思っていたのを思い出す。前にも書いたように、若い時には生意気であったほうがいいと、僕は考えているので、いまでもこの態度は正しかったのだと思っている。でも40歳になった今、成人の日は別の意味で、僕にとって大切な日になっている。そうだなぁ、20代の終わりあたりからかなぁ、変わってきたのは・・・・。
 本当の事を言えば、僕はいまだに「大人」とは何かということがわからない。子どもの頃、いろいろしてはいけないこと、というのをたたきこまれたけど、どうも、大人というのは、そういういけないことを、できるだけ平気でやっちゃえる人たちの事だったりするのだな。子どもの頃にはみんな持っていた、地球全体に対する人間としての誠実さのような感覚をそのままにして「大人の世界」に入っていくというのが、実は至難の技なのだということは、ちょっと昔の事を思い出してみればすぐわかる。
 毎年の「成人の日」、だから、僕は20歳になった頃の僕を思い出し、今の自分を点検する。静かにね。そうすると、結構うろたえるところがあって、人間の大人になるということがどういうことかわかってくる。子どもがかわいいのは、彼らが誠実だからなのだということも、わかってくる。

平成4年2月22日

 「長町旧4号線沿い行ったり来たりのお散歩」というのがおもしろいと友人に勧めたら、その後で、「斎さん、例のお散歩、やったことあるの?」と、非難ぎみにいわれてしまった。ええと、僕の家では、子どもたちと一緒に、けっこう頻繁にやってるんだけど、つまんなかったかなぁ。実は、問題だったのは、距離が長くて大変だったという点です。ううむ、そうであったか。あれで長いのね、急いで歩いたんじゃないの?
 僕は、これまで事あるたびに、お散歩にでかけようという提案をしてきているのですが、そのお散歩というのは、こういうことだったのね。ゆっくりと、いろいろ脇目をふりながら、子どもたちが一緒の時は、彼らの時間の流れに沿って、まぁ半日ぐらいは移動を続けていく、というようなやつ。
 時間はこっちにあるのだという自覚さえあれば、長い時間をかけて移動していくのは、相当小さい人でもそんなに難しくない。だって、小さい人って、ほっておけば1日中遊んでいるわけでしょう? そのペースで行くと、すぐに1日なんて終わってしまう。あ、言っておきますが、大切なのは、「時間」です。移動の「距離」ではありません、念のため。
 やりとげるだけでなく、やりきる楽しみを、彼らと共有するのに、長いお散歩は有効です。小さい頃からやっていると、小学生になったときに、「入学記念おばあちゃんの家まで大散歩」なんていうのも楽しめるようになります。ちなみに、僕の家は仙台向山で、実家は岩沼です。
 僕は、水泳なんかでも、つい1時間とか泳ぐっていうの好きなんだよなぁ。ゆっくりやると、こういう作業は、肉体の作業ではなく、頭脳の作業なのだということがわかってきて、やめられなくなるんですけどね。

平成4年3月28日

 学校に行っている子供が2人いる僕の家では、毎年3月もこの時期になると、今年の成績をさかなに、ふと逆上的に教育についての話が盛り上がっちゃったりすることがあるのですが、みんなのところはどうなんだろう。義務教育で行われる教育をよく考えてみると、僕たちが、今、何の上に生活を成り立たせているのかがはっきりしてきたりして、ううむ、君たちの将来もけっこうシビアなんだよなぁ。本当ならば、義務教育でのお勉強っていうのはさ、競争してまでおぼえなきゃぁないことなんてないわけで、これってあれでしょう、つまり人間として、まぁこれくらいは知ってたほうが便利で生活しやすいですよっていうぐらいなもんであって、それでこれからの生活がどうなるこうなるっていうもんじゃないはずなのよね、僕のこれまでの経験を振り返ってみても、、、。
 どうも今のままだと、もし宇宙人が地球に来たときに、この惑星の代表としてコンタクトをとるのは鯨の一族のような気が、僕にはして、もしそのような事態になったとしても、僕の子供たちが、生物としての人間として恥ずかしくなく、せめて、サイなんかと同じくらいには、地球の動物としての威厳と、環境に対する誠実さとを持っていることができるためにこそ、まず、基本の教育はあって欲しいもんだと思うんだがなぁ、というのが、今のところ、僕の、基礎的集団教育に対する考え方で、しかしこれって、そうとう今の日本じゃマイナーな考え方なんだろうなぁ。
 負け惜しみだと言われてもいいから、成績の点数がよいというのと、人間として頭がよいというのとの違いを、大人は真剣に考える時期にきているのではないだろうかと、新しく学校に入るための人たちのためにも言っておきたいと思います。

平成4年4月25日

 先生たちと、美術について考える活動をすることがあって、その時、「なにしろ美術は、紙と鉛筆から始りますから、好きな鉛筆と紙を持って集まって下さい。」とお知らせした。そうしたら、その夜、家に電話があって「あの、好きな鉛筆って4Bの鉛筆のことですか。」って聞いてきた人がいたのね。 あなたは4Bの鉛筆が好きなんですか?
 好きな鉛筆といったら、あなたが好きな鉛筆のことで、たとえば僕の場合なら、それはドイツのF・C社の9000番の緑の軸をした、BかHBを、アルミニュウムの小さなブロックでできている、指でつまんでクルクルまわして使う鉛筆削りで削って芯をだした鉛筆のことです。そういう鉛筆ないの?みんな。
 「鉛筆なんか書ければいいんだから、私はなんでも良いんです」というのも、好きな鉛筆を決める立派な目安ではあって、何しろ、きちんと自分で考えて鉛筆を選ぶっていうあたりが、「絵」を描く一番はじめなのじゃないかなぁと、僕は思うのね。具体的にことをはじめるというのは、こういうことなのではないかしら。
 「絵」を描きはじめるのに最も必要なのは、「見つめ続けられるものを見つける」ということなのだけれど、それを行動に移していくとき、初めにすることは、自分の手の延長が、確実に自分の手の延長になりえているか、の確認あたりからなのだよね。普段何気なく通り過ぎているものやことに、きちんと意識を合わせてみて、自分の感じを優先してことを決めていってみると、たとえば鉛筆で線を一本引いてみるという行為の中にも、すごい感動がひそんでいることに気がつける。たぶん勉強って、そういうところから始ったんだと、僕は信じたい。

平成4年5月30日

 山に住んでいる友人をひさしぶりで訪ねたら、新しく生まれて5ヶ月になるという女の子がいて、僕の方をじっと見つめるので、だっこさせてもらいました。
 小さな手で、ヒュッと腕にしがみついて来られると、僕はすごくうれしくなってしばらく真剣に遊んでしまった。要するに、彼女をひざの上に乗せて、彼女が指を指す方向をいっしょにお話しながら眺めたり、僕の人さし指を彼女が握ったり離したりするのを、彼女がしたくなくなるまでやったりした、ということなんですけれどもね。 僕の子どもたちは、もう10歳を越えてしまっていて、こんな感じは本当にしばらくぶりでした。5ヶ月の人のものすごく小さな手なんかをしみじみ見たりしていると、僕にもこういう時期があったんだろうかと少し驚いてしまって、ということは、僕は、この時期の記憶がだんだんなくなってきているのだなと、ちょっと悲しくなったりしました。
 大人の人たちと話をしていていつも不思議に思うのは、大人はわりと簡単に「すばらしい子どもの視点」とか、「子どもの純粋な感性」とか言ってしまうことで、子どもという特別な生き物が何か別にあるかのように僕には聞こえてしまうのね。僕たちは、ほんの少し前までみんな子どもをやってたわけで、まるで、今のあなたと子どもの時のあなたとはつながっていないみたいじゃない。
 5ヶ月の彼女と一緒にいると、ほんの少し前、僕は子どもでいろんなことにびっくりしながら、何だか毎日はりきって、でものんびりとすごしていたことを思い出すことができる。子どもの僕がいたので、今の僕がいるのだという実感と視点をいつもきちんと点検し続けなさいということを、5ヶ月くらいの人は、人さし指をキッと握って伝えてくれるのだと思う。

平成4年6月27日

 ミシンがもうなおせないほどへたってしまったので、新しいミシンを買いました。で、子どもたちは街に出掛けて、涼しそうなチェックの布を買ってきました。お母さんと自分たちのスカート、それから僕のアロハシャツを作るんですって。やぁ、うれしいなぁ。もうだいぶ前から、彼らは自分の着るものを自分で作るようになってきていたんだけれど、ついに、僕のものまで、作ってくれるようになったんだなぁ。 6月に入ると、美術館には、幼稚園や保育所の子どもたちが園外保育でやって来る。最近の子どもたちはみんななかなかしっかりした服を着ているんだよなぁ。あなたのお母さんが一生懸命選んでくれたんだよねぇ、というと、彼らは恥ずかしそうに、しかしすごくうれしそうに、僕にその服をはじめて着たときのことを話してくれたりする。
 自分の身に付けるものを選ぶということは、その物によってイメージされるライフスタイルを選ぶということだと、僕は考えている。それを身に付けると言うことは、その物によって自分の生活がどのように画期的に肯定されるかということを楽しむことだと、僕は考えている。
 子どもたちはたぶん何も考えてはいないにちがいないけれど、僕たちが彼らに選んであげたものが、彼らの存在と生活を肯定的に包んでくれているかどうかについて、敏感に感じとっていく。さまざまな経済的な制約はあるにせよ、それを含めて、彼らと一緒にきちんと話し合いながら、身の回りのものを意識していき、そして、彼らが布を買ってきて、僕のシャツを作ってくれる。やぁ、うれしいなぁ。
 自分の生活を肯定的にイメージできるものを身に付ける幸せを、僕は、ここしばらく、楽しみたいと思います。

平成4年7月25日

 家の小学生が使っている上靴が古くなってきたので、新しいのを買うということになりました。これまで普通のスニーカーを上靴として使っていたのですが、どの靴がいいかについて話し合っていたら、実は、小学校には決まった上靴があるのだということがわかったのね。爪先に色付きのゴムが付いている、バレーシューズと呼ばれている、あれですよ。ひぇーっ、これって、お父さんが小学校の頃にもはいてたやつだよ。数十年たった今でも、同じ物使っていたんだ!? 経済的な問題など、さまざまな問題に最大限譲歩したとしても、あれは、コンクリートの床の上で、1日の大半を過ごす、小さなあなたの足と体には、許しがたく悪いと、お父さんは考える。こういう部分、僕たちの国はなんだかすごく貧しいんだよねぇ。一番身近に身に付けて、長時間使うものに限って、安っぽい経済性みたいなものを使うってとこがあるんだよなぁ。なんだかびんぼうくさい考えだよねぇ。
 この時期、長い夏休みの間、何か子どもたちを遊ばせるような企画がありませんか、という相談が美術館の創作室にはよせられる。暇な時になにをするかという問題の最も根本的な部分は、自分に最もかかわりが深いもの、たとえばいつも使う上靴を、どれだけ意識的に選択できるかっていう問題と、すごくクロスしているように僕には思える。ふだんの生活の中で、自分の身に付けるものをきちんと意識的に選んでいくという行為と、自由にしてよい時間が出来たときに、それを自分でコントロールして使っていくという行為とは、頭の働きとしては同じ活動のように、僕には思える。
 だから夏休みの活動として、この際、自分の足と体を考えながら意識的に上靴を選ぶ、というあたりから始めてみたらどうかなぁ。

平成4年8月29日 

 セシル・テイラ−。このアメリカの黒人のおじいさんは、フリー・ジャズのピアニストとして、ファンの間では大変良く知られた人です。8月4日の夜、彼は宮城県美術館で、2時間ほど即興のジャズのピアノコンサートをしてくれました。 ホールの電気が消えると、天井の後の方から英語の詩の朗読が聞こえてきて、その韻の調べが、あっというまに僕たちを日常の世界から引き離し、そのままぐるっと二階を周って脇の階段からピアノの所にセシルが出てくるという始まり方に、僕は、感動しましたね。やられたなぁ。それに続く演奏が、想像できるピアノの音の範囲を軽く越えて広がり、僕の体の筋肉をどのようにゆるませたかというお話は、ちがう機会に譲りましょう。
 僕がその時、にこにこと感動しつつ、ゆるゆると廻る頭の中で考えていたことは、僕が彼と同じ60歳になったとき、こんな風に自由なおじいちゃんになってられるだろうか、ということでした。
 思えば、美術館にある、現代美術と呼ばれる何だかごちゃごちゃわかんない絵も、実は、結構年をくった人たち(63歳とか、57歳とか)が、すごく真剣に描いていたりするわけで、本質的に抽象的な仕事って、やっぱり相当歳とんないとやったりわかったりできないものなのかも知れないなぁ。早く立派なおじいさんになんなくっちゃ。きちんと歳相応のインプレッション(印象)とエクスプレッション(表現)を見せてくれるおじいさんやおばあさんを見ると、僕は、歳を取ることが楽しくてしょうがなくなる。ああいう、おじいさんになりたいなぁ。
 ところで、僕たちを見ている子どもたちは、同じように早く大人になりたいよって思ってくれているのだろうか。ヒャ−ッ、これって、けっこう大変だ。

平成4年9月26日

 この時期、美術館には、たくさんの団体の方々がやってきます。子どもたちも、幼稚園や保育所などの集団で来てくれて、そういう人たちとつきあう係である僕は、このところ毎日午前中は半ズボンをはいて、美術館のおんちゃん(おじさん)をやってるわけですね。 というような話をすると、彼らに付いてくる先生も含めて、「毎日大変ですね」という大人が多いのだけれど、どうしてかなぁ。僕はあんまり大変ではない。講習会や研修会で、団体の大人の人たちとつきあうよりは、ちょっと興奮ぎみにうるさくて、元気いっぱいだったとしても、子どもたちとある時間を過ごす方が、終わった後、はるかに元気になれるわけで、それはなぜかというあたりを詳しく考えて行くと、なにか人生についての重大な問題が浮き上がってくるような気もする。けれど、それは、大人の権威のために、ここでは追及しないでおこう。それにだいたい、きちんと普通の会話をしているかぎり、子どもは、そんなにいつも興奮してうるさいものなんかでは決してないわけよね、あたりまえだけれど。だから単なるあいさつだとしても「子どもと毎日では大変ですね」というのは、子どもにすごく失礼じゃないのかなぁ。
 10歳前後の少年少女とする活動は、僕がそのころ興奮して吸収した知識や経験が、未だに同じように彼らを興奮させることがわかって気持ち良くおもしろい。3、4歳以下の人たちとする活動は、彼らがしたいことを一緒に探して行くだけで、人間がなにに興味を持つ物だったかを思い出させてくれるので、僕は好きだ。
 かわいくない子どもはいないというのが僕のまったく楽天的な子ども観で、かわいくなくなってしまった大人ってのがいるんで、かわいくない子どもの問題が起こるんではないのかなぁ。

平成4年10月24日

 公立美術館の普及部というところで働いている僕の主な仕事は、美術と美術館をめぐる質問や相談にのることで、その相談の内容からわかるのは、みんな、結構緊張して来てんだなぁ、ということなのね。 公立っていうことは、税金で建てられているって事で、まぁ、消防署とか警察署とかと、美術館も同じようなもんなんです。警察署や消防署って、あんまりお世話になりたくないですよね。そこで働いている人以外、しょっちゅう行っている人っていうのもあまりないわけ。でも、あるとなんだか安心で、小学生のとき、遠足で施設を見に行ったりしました、
 ほらこのへんまでは、美術館も一緒でしょ。しょっちゅう行くわけではなくて、ひょっとすると一生行かなくてもすんでしまえて、でもあると何か安心で、子どものころ遠足で行ったことがある、ね?。ただ、警察や消防署の仕事っていうのは、すぐ思い付くけれど、美術館に関しては、すぐにはうかんでこないというところが、違うところなんだと思うのね。消防や警察の社会的な意味なんかわからない時期、僕らは遠足で救急車を見たり白バイのお巡りさんに会ったりする。そして、なんだか嬉しかったでしょう?美術館もそうなるといいんだがなぁと、ぼくは考えている。
 美術館なんか、なんだかよくわからない時期、世の中に美術館という、なんだかちょっとへんてこな場所があって、へんなおじさんが一生懸命難しいお話をしてくれたという記憶だけでもいいから、彼らに与えておきたい。大人になって、ふと「あぁ、美術館なんていうのあったなぁ。」と思い出して、行ってみることに抵抗のない人。こういう人がもう少し増えてくれると、そうとう世の中楽しくなると思うんだがなぁ。

平成4年11月28日

 僕の家族はちゃんとしたクリスチャンではない。けれど、この時期になると、そろそろクリスマスの事が気になってきて、子どもたちは、サンタクロースに何のプレゼントをお願いするか楽しそうな相談を始めている。おおい、お父さんもまぜてくれよ。 あえてことわりますが、僕の家は、クリスチャンでもないけれど、仏教徒でもないし、神道をはじめとするその他さまざまな宗教ともあまり深い関係はありません。関係はありませんが、家族みんな、なんだか神様はいると信じてはいるんだな。
 で、いろいろ問題はあることは理解した上で、クリスマスもやって、元朝参りもやってしまうのですね。僕の家族が感じている神様って、多分、神様ということ(物)を考えついた人間という生物も含めた、宇宙の自然全体のネットワークに対する驚きなんじゃないのかなぁと、最近思うの。すごく不思議に思える自然の様々も、勉強して調べてみると、まったく驚くべき、しかもそうとうあやういシステムで、きちんと運営されていたりする。そういうことを勉強できるというこもとも含めて、こういうのってぜったい誰か何かしてるよね、と、僕は思うな。
 こういう態度は、科学的ではないということになっているわけですが、でも、「ヒャ−、すごいなこれ!」と言う驚きがなかったらほとんどの科学的な追及は始まんなかったのだということを思いおこしてみると、神様みたいな物はいないんだって言いきってしまうっていうのも、結構科学的ではないかも知れないよね。
 だから、このシーズン、お父さんをゆり動かして、子どもたちと一緒におもちゃ屋さんめぐりをさせてしまうこの不思議な衝動を、商業主義とは別に、科学的な視点から楽しんでしまうのが、僕は好きだな。