平成13年3月24日

 もうすっかり大人になった人が尋ねてきて、美術館で、僕が子どもたちと一緒にやっている活動を見た。そのあとで、「私が幼稚園だったころに、齋さんとやった活動と同じなのでうれしかった。」というような感想を言っていた。そうなの、僕の活動は、このところ、だいぶしばらく、ほとんど変わっていないのね。 時代や、環境が変わったとしても、人間の子どもが、興味を持って集中する対象というものは、そんなに変わるものではない。むしろ、僕には、それにつきあっている大人が、子どもが集中している、たいていはその子どもにとってとても大切な作業に飽きてしまって、その子どもが集中することのできる様々な環境を、いかにも君たちのためですよという風なことを言いながら、しかし、むりやり変えているように見える。そう、大人が変えているのだ。そして、あげくのはてに、最近の子どもは変わった、わからなくなった、ということになる。子どもがわからなくなったのではない。私たち大人が、飽きてしまって、変えてしまって、わからなくしてしまったのだ。私たちだって、全員が、少し前までは、子どもだったのに。
 子どもの視線に立つと言うことは、私も、ちょっと前は子どもだったということを思い出すことということなのだ。そのうえで、しかし私は、子どもであるあなたより、もうだいぶ長く生きてきた、というあたりでの知恵を絞り出す。そういうことができる、ということこそが、大人だということなのだと、僕は考えている。だから、子どもと一緒にやることは、私が、ちょっと昔、両親と一緒にやったようなことで良いのだと思う。しかし、そして、だからこそ、今、私が、こうしてここにいるという意識は、できるだけ深く、広く、柔軟に持ちたいと思う。
 さて、突然だけれど、今回でこのコラムは終了する。長い間、本当に長い間、読んでくれてありがとう。またいつか、どこかで。