おわりに

 コラムの連載を始めたときから、最後に1回だけ、僕のカミサンのことを書こうと思っていた。しかし、世の中は、そう、思い通りには行かないもので、最終回は、突然やってきた。そしてそれはそれで、なかなかこのコラムにふさわしい終わり方だった、と僕は思っている。でも、だから、最後に、僕のカミサンのことを書こう。 
 僕のカミサンは、中学2年生の時の同級生である。24歳で、一緒にアメリカに勉強しに行くとき、ヴィザの関係で、ちゃんと籍を入れたのだけれど、それまでも、僕はほとんど彼女に養われていたと言って良い。高校生以降の、僕の色に対するセンスとか服の好みとかは、ほとんど彼女によって点検され、矯正された。異性ときちんと話し合いをし、ごく初歩的な社会をかたちづくるシステムについて、僕らは、二人で様々うろたえながら、何とか乗り越えてきた。ニューヨークで子供を産んで帰国したあたりから、彼女は少しずつ調子を崩し始め、ついには病院で精神分裂病ですという診断を受けた。どんな説明をしたとしても、やはり、その責任のほとんどは、僕にある。そのころの僕は、他人の話をきちんと聞く訓練が、できていなかったのだ。それ以降、様々、いや、本当にたくさんの様々な出来事を、僕たちの家族は、家のまわりや職場、両親、姉さん兄さんと弟妹、そして友人たち、まったく信じられないほどたくさんの人たちの、信じられないほどの広さと深さの助けによって、なんとかかわしつつここまで来れた。カミサンのことを直接には1回も書かなかったけれど、ここに集められた文章を読むと、僕には、そのときどきの彼女をめぐって、僕を支えてくれた人たちの顔が思い浮かぶ。同じ家の中に、みんなと同じ調子では動けない人が普通にいる、という生活は、僕と娘たちに、実に善い人生を提供してくれた。「おとうさん」は、こういう抜き差しならない状況の中で、行き詰まり、あわてふためき、うろたえまわりながら、月に一回、ふと頭を上げ、「何だ、本当は、こんなもんでよかったんじゃないの。」とかなんとか、人生のつじつまを合わせるための「ひとりごと」を書いていたのではなかったか。彼女が一緒にいたので、僕の生活は、常に具体的な視点を持ち続けられたのだと思う。 とは言え、僕は、それをどうこう言うために、このことを書いたのではもちろんない。このような状況は、僕が生きていることの一部なのであって、どんな人だって、ほとんど様々、どうしようもない状況の中で生きている。なんとかかんとか、毎日のつじつまを合わせながら生きている。人はみな、いまそこにいる状況こそが現実なのであって、こうではないはずだという思いは、愚痴ではあっても夢ではない。今、私は、ここに、こういる、という自覚にたったリアルな視点からだけ、本当の、この先を積極的に考える姿勢−希望や夢−というものが生まれるのだと、僕は思う。一見平和に見えるとしても、あちらこちらに波風が立ってこそ人生なのであって、それをいかに肯定的にくぐり抜けてゆくかというところにだけ、充実した、楽しい人生というものが、出現してくるのではないかしら。

 これからも、大変で、楽しい生活を、続けようと思う。                   齋 正弘