平成12年10月28日

 ほとんどの場合、コミュニケーションはまず、相手に伝えたいイメージを自分が持つことから始まる。あわてないで考えてみればわかるけれど、言葉やお話ができるかどうかは、その次の問題なのだ。小さい人が、手足を振りながら、ニコニコとあなたを見て言う「バブ、バブ。」は、「私は、あなたに会えてうれしい。」というメッセージがまずあって、知っている言葉や、唇の運動神経などと相談しながら、「バブ、バブ。」という言葉になって出てきている。「子どもの絵の指導をどうしたらよいか。子どもの絵は、自由に描かせておけばよいのか。」というような相談が、美術館の創作室に寄せられる。
 子どもだって、大人だって、見る仕組みは同じなのだから、見えている風景は同じものだ。でも、見えているもの−イメージしたもの−を紙の上に描くには、運動神経の使い方を含めた、けっこうな練習がいる。ある年齢の時には、あるところまでしか、うまく手が動いてくれないこともある。「やあ、こんにちは。」と言いたいのに、「バブ、バブ。」と言ってしまうように。
 普段あまり気にしてはいないけれど、目でものを見る、という作業は、私たちの身体がもつ情報収集方法の中では、もっとも威張っていて、百の情報を聞いても、一回見ることには負けてしまうことになっていたりする。私が見ているものを、見えているように描きたいという思いは、人間ならたいていの人がもっている。そして、見えているものにとらわれずに、自由に描きたいという思いも。
 大切なことは、どちらも、見ているその人の思いだと言うことだ。指導し、させるものではなく、相談し、手助けをする。私は大人だ、ということは、そういう手を差し伸べることができる、ということではなかっただろうか。