平成12年8月26日

 僕の下の弟に息子が生まれて、もうすぐ1年になる。弟たちは、実家のそばに住んでいるので、何かの時には、僕の母と父に、子守をたのむ。だから、ときどき、実家に顔を出すおり、彼に会うことがある。1歳少し前という典型的な赤ん坊が、もうしばらく忘れていた「僕のお母さんの胸」に、しっかりとしがみついて、「この人は誰だ?。」という真剣なまなざしで、一生懸命、僕を見ている。ううむ、おまえは、誰だ?。 初めてあった霊長類の近づき方というものは、まず、お互いに敵意のないことを示して、しばらく一緒に静かな同じ時間を過ごす、というようなものだから、僕は、彼から少し離れたところにゴロリと横になって、ときどきニコリと目を合わせながら、雑誌を読む。彼は、彼の仕事−たたんだタオルケットをくちゃくちゃにするとか−をしながら、ときどきこっちを見ていて、いつの間にか静かにそばにいる。
 僕の母親のやり方は違う。彼女は、彼といるあいだじゅうずうっと話しかける。名前を呼ぶのはもちろん、彼がしていることや、見ているものやこと、見えているものやことを、次々に実況放送していく。彼女によれば、赤ん坊の彼のふるまいは、彼女の長男である僕の赤ん坊だったころとよく似ているという。ひゃーっ、僕ってこうだったの。そして、お母さんも。僕は、「男は黙って行動を」という社会状況の中にあっても、小さいころからおしゃべりな子どもだった。そうか、記憶にはなかったけれど、僕もこんなふうに、お母さんに話しかけられて、大きくなってきたのだったのか。
 何をするにせよ、人間はまず言葉で考える。相手が何を見て、何を想い、私はこれを見て、そう考える。記憶のずうっと奥のところにある基本的なものの組み立て方。お母さんの胸にしがみついていた時代のお話が、今の僕につながっている。