平成12年7月22日

 展覧会の感想を短く書く、というのはたいへん難しい。でも、考えるところがあるので、6月にあった、YSという若い女の人の写真展のことを話したい。機械がよくなってきたので、最近は、誰でも気軽に上手な写真が撮れるようになった。だから今、写真はいっそう、それを撮っている人の視点−私は何を視ているのか−だけが、強く問われる。彼女は、自分のよく乗るバスの、窓から見える風景と、偶然乗り合わせた人たちの様子を撮った。至って普通の、街と郊外を結ぶバスの中の写真は、最近撮ったものなのに、まるで昭和の時代のころのようななつかしさと既視感−どこかで見たことのある安心感−にあふれていた。
 「私は、あまりバスに乗らないのですが、バスの中って、やさしさにあふれているのですね。」という感想を述べている人がいたが、それは違う。バスの中がやさしいのではなく、これを撮った彼女の視線がやさしいのだ、という見方。私という人間は、まず一人でここにいる、ということを肯定したところから見つめる連帯感。私は一人で、ここから一人一人の人の集まった状態を見ている。孤立をおそれず、連帯を信じて、だったか、求めてだったか、そんな言葉を、昔、使っていたことを思い出す。
 知らないうちに、一人でいることを恐れ、連帯感というよりは、集団意識ベッタリの視点になってしまいがちな私たちの生活の中に、彼女の目が切り取った小さな世界は、一人でいることや、一人で見るということが、別に困ったり悩んだりするようなものではなく、むしろ、そここそが、私とあなたのもともと立っている場所であることを思い出させる。
 きちんと孤立した視線こそが、私たちの連帯の意識をゆり動かし、まわりを見る目をやさしくさせるのだ。