平成12年5月27日

 子どもと活動をしていると、夢中になってきた子どもたちが、「さい(齋)い!」と、元気いっぱいの顔で、たいへん肯定的に呼びかけてくるときがある。初めて会った大人である僕を、「さいいのぞましいということは、大人と子どもが、対等の関係を保ちつつ、何事かを、力を合わせて成し遂げていく方法を持っている、というほどの意味だ。とは言え、僕は、「大正生まれ」の両親に、きちんと「躾られつつ」大きくなった、昭和26年生まれの「男子」なので、小さい人たちが、どんなに肯定的であろうと、大人の人を呼び捨てにすることにどうも、いまだになじまない感情をもつ。
 しかし、ふと思えば、英語で話しているときは、全部この方式、すなわち、みんな、ファーストネームで呼び合う、という方法で会話は進んでゆくということに気付く。相手が大統領であろうと、幼稚園の園児であろうと、「さいい」は「さいい」なのだというところから始める、または始まる会話。Aという考え方と、Bという、まったく違った考え方があって、なんとか一緒に何かをするために、話し合いをしつつ、A'でも、B'でもない、Cというやり方を作り上げなくてはいけない場合、さて、どっちのやり方の方が話が早く、深くなるだろうか。
 もちろん、ただ呼び捨てにすることと、ファーストネームで呼び合うということは、違うことではあるけれど、話の立つ場所として考えると、日本の大人が忘れている、何かたいへん大切なことが、このへんにあるように、僕には思える。
 そうか、子どもの頃から英語を始めようということは、そういうことだったのね。