僕たちは、みんな一人一人違う人間である。だから当然、一人一人違う毎日を生きている。その毎日の経験の積み重ねで、その人の世界観−自分以外のことのつじつま合わせ−や、人生観−自分の中でのつじつま合わせ−ができてゆく。

こんなことはみんな良く知っているはずなのに、なぜか世の中には常識というものがきちんとあって、それからほんのちょっとでも違っていると、変わった人とか、困った人、ということになってしまったりする。人間はみな違うのはあたりまえなのだから、その違った人々が集まってくらす「社会」というシステムには、もちろんある程度の決まり事が必要ではあるだろう。しかしそれは、集団でくらすための約束なのであって、一人でやることや、時にはあまり気にしない方がいい。とは言え、一人でやることというのは、現代社会の生活の中には、あまりない。
美術は、その数少ない一人でやることのうちの、ほとんど唯一にして、もっとも大切なものの一つだと思ってしまうのは、僕が美術の人だからだけだろうか。
一人の人間がそこに存在し、そこに自分がいることによっておこる毎日の様々な出来事の、つじつまを合わせ、肯定してゆく。その毎日の積み重ねによって作られる、ものの見方、見え方を描いてみる。うまいへた、乱雑丁寧、大小、明暗、色あい、その他様々の全部を含めて、そこに描き出されたものが、全部違うということこそが、私たちが今ここにいるということの証明なのではないか。
1月27日から31日まで、宮城県美術館の県民ギャラリーで、知的障害を持った人たちの美術展が開かれる。一人一人違っている自分が、今、ここにいる、という表現。私たちの存在は、きちんと肯定されて、私たちの側にあるのだろうか。