平成10年7月4日

 この前、電車に乗っていたら、向かいの席にいた小さい女の子がぐずり出した。一緒にいた若い両親は、なんとか彼女の気をそらそうとして、窓の外を見なさいとか、ほらもうすぐ着くからとか言っている。でも、彼女は、もう電車に乗るのにうんざりしてしまっているのだな。服装から見るに、たぶん今から法事のようなものに行く途中らしい。その服装自体が、もううんざりなのだと、その顔が語っている。子どもと一緒に行動を起こすとき、このような状況は極めて頻繁におこる、らしい。ふだんから、話し合いをしながらことを進める習慣にしてあれば、こうなる前に、何か打つ手が考えられると思うのだけれど、最初からずうっと、命令と服従の関係だけでものごとが進んでしまっていると、いざ、こんな具合に子どもが「きれて」(というふうに使っていいのかな?)しまうと、もう、打つ手はないらしい。
 気をそらせるのではなく、彼らがうんざりしている本当の理由についての相談にのる、という解決方法を選択することは、難しいことなのだろうか。それとも、そうしてはいけない深い理由が、大人にはあるのだろうか。たとえばこの場合、次の駅で、電車から降りちゃうという選択はどうだろう。この選択は、単に、子どもをあまやかしているだけの選択なのだろうか。
 たぶん子どもと一緒に生活するということは、降りてしまうというような選択肢が、何個か増えるということなのだろうと思う。いやはや何ともという気持ちで、ふだんなら絶対降りることのない駅に、子どもと一緒にぼう然と立ってみる。そして行くはずだった法事について、彼らとじっくり思いをはせてみる。何か新しくておもしろそうなことって、こういうところから始まるのではないかしら。