平成9年9月27日

 集団保育の人たちが、時々美術館に来る。子どもが15から20人、そしてほぼ同じ数のお母さんたち。そして、たくさんの粘土を使ったドロンコ遊びを始める。子どもたちは、自主的に子どもたち同士のさまざまなふれあいの行動をし始める。ふれあいといっても、なにしろほかの子といっしょにいるという経験がまだ少ししかないわけだから、さしあたって、ちょっと隣の人の頭をたたいてみるというようなことをするのだよね。注意深く見ていると、他人とふれあうための行動は、実に注意深く行われて、本格的なけんかとは明らかに違っている。でも、お母さんにとっては大変なことのようなのだな、なにしろ隣の人に手をあげるというのは。で、「やめなさい、なんてことをするの、さ、あやまりなさい。」ということになってしまう。ううむ、するとなにか、隣の人と何か関係を持とうとすることは、ほとんどダイレクトに、あやまることだったのか?
 子どもたちが、この時お母さんの顔を見ている目は、このようなことを訴えているように、僕には見える。禁止されても、3回ぐらいまでは、何とか相手とコンタクトを取ろうとする人はいる。でも3回ぐらいまで。それ以上は、彼らは他の子どもたちとコンタクトを取ることへの興味を急激に失って、お母さんとのみ遊ぼうとし始める。すると、なんとお母さんは、他の子どもと遊びなさいというんだな。子どもはどうしたらいいのだろう。子どもたちは集団でいるにもかかわらず、お母さんとも連携を失ったまま、深刻に孤立しつつ、その活動全体に興味を失い、活動は、15分を待たずに混乱の様子を見せはじめる。
 子どもたちといっしょに生活することは、一体どのような手を差し伸べることなのか。集団での保育を見ながら、僕は少し深く困っている。