平成9年3月29日

 僕が仕事をしている場所の東側は大きな窓で、いつも空を見ることができる。その空に向かって、ポプラの木が立っている。たいそう背の高い大きな木で、夕方、もう空は暮れはじめている中に、お日さまの最後の光をこずえに受けて、金色に輝いていたりする。 だいぶ前に、僕は、木のご飯は水と炭酸ガスだということを、学校で習った。炭酸がスは空気の中にあって、葉っぱの表面にあるたくさんの小さな口から取り入れ、水は、土の中から、あの木のてっぺんまで吸い上げるのだという。ううむ、でもね、吸い上げるったって、あなた、あんなに高いんですよ。本当に、てっぺんまで、水、いってるのかしら? それに、どう見たって、その木の下の土は乾いていて、水なんてあんまりないようだしなぁ。土の中って、本当に水、いつでもあるんだろうか。
 子どものころに、学校で習った、さまざまな知識を、大人になってから、ふと真剣に思い出して点検してみると、そこには、とてもたくさんの不思議があることに気づく。その中には、どうしてこれまで不思議に思わずにこれたのだろうかと心配になるほど、重大な問題もあったりする。多分、学校で学ぶ知識というものは、僕にとってはそういうものだったのかもしれないな、と、今になって僕は考える。
 窓の外の広い夕暮れの空に向かって立つ、金色に光るポプラの木をめぐって、まず一番に僕たちがしなければいけないことは、「ひゃー、あなたは今なんときれいなんだろう。」とびっくりすることではなかろうか。たぶん驚くべき広さと深さで土の中に張りめぐらされて、一生懸命小さな水のかけらを探している大小の根っこを思いながら、4月から始まる新学期に向けて、お父さんの僕は考えている。