平成2年10月27日

 今、階段をかけおりてきて、急いでこれを書き始めているのだけれど、ううむ、これがいけないな。息がきれている。そうすると、たとえばせっけんがきれてしまっていて、買いにいかなければなぁと思っていても、なかなか動けず、いつのまにか、合成洗剤の小さな箱が洗濯機の脇に出現してしまったり、この文を打っているワープロの周りに、読みかけの文庫本や雑誌が、いったいいつ読み終えるのだろうとうんざりしてしまうほど積み上がってしまったり、自動車はぴかぴかなのに、いつも使っている自転車は、泥だらけだったり、と言うようなことになってくるんだよなぁ。息切れは、なにかの象徴なんだよね。
 小さい子を見ていると、彼らは、息ぎれしない。そうとうへんてこに激しい活動をしているのに、息ぎれしていない。彼らと一緒の行動を僕がすると、僕も息がきれて、そして、彼らも息がきれてくるところがおもしろいじゃない?
 「息がきれるようなことを、しない」のではなく、「息がきれないように、する」ってところがこつなんだとおもう。
 どうもいろいろさ、結果だけを問われることが多いでしょう? それから、何かを成就しない活動ってのも、なんだか、いけない事しているような気になったりね。
 でも、行為の過程とか、いっけん無意味な活動の最中に感じることとかっていうのが、本当の意味でおもしろい事っていうんじゃないだろうか。そういうことを忘れてくると、なんだか息がきれてくるみたい。体力とかとはあんまり関係ないんだと思うな。
 僕の息ぎれの原因はわかっている。むむむ、だ。
 まずは深呼吸して、みんなといっしょに、自転車の掃除あたりから、立て直しを始めようかな。