平成元年 10月21日

 どこからか子どもが一生懸命泣いている声が聞こえる。どうしたのかなぁ。お母さんかお父さん、いないのかなぁ。子どもが真剣に泣いていても、割と平気な顔をしているお母さんがいるけれど、僕はだめです。優しい気持ちから心配になるわけではなくて、なんだか、ドキドキと、子どもの頃、洪水警報のサイレンを聞いたときの感じと、むしろ似ているかなぁ。自分の子どもかどうかとは関係無く、何回聞いても、子どもが一生懸命泣いているのを聞くのは、どうも慣れないなぁ。赤ちゃんのときならいざ知らず、もうお話ができるようになったのに泣くというのは、お話よりもっと前の伝達手段に訴えているって事でしょう?そういう状態というのは、お話をすればすむというものではすでになくなっているわけで、もっと違う方法でのお話、たとえば抱いてあげるとか、一緒に見てあげるとかしなければ話がつかなくなってしまっている。話せるうちだと割と説得しやすいんですけどねぇ。
 彼らが大きくなって、自分の決定でやってみようとし始める頃、「子どもが言う事を聞かない」とたいていの大人は思い始める。ううむ、それって、彼らが泣く以前にちゃんと話をつけておいたうえで言っていることなんだろうねぇ。「話を聞いてちょうだい」と泣いてしまっている時には、無視しておいて、一人でやろうって時になると「話を聞こう」って言ったって、そりゃぁ、都合がよすぎる。
 大人の都合とほぼ同じに、彼らにもある都合について、話し合いがされなければいけないと思う。それで、大人の考えていることが半分しかできなくなったとしても、それこそが、本当に子どもと一緒にやる生活と言うものなわけで、現実ってそこのことなんじゃないのと、僕は、考えてしまうのだ。